平野 雅彦

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平野 雅彦

平野 雅彦

常務取締役
1962年2月

栃木県に生まれる。

1968-80年

朝は卵焼きを食べ、昼休みは小学校の砂場で相撲、放課後は作新学院の江川卓にあこがれて野球に没頭する極普通の少年。夏休みは朝3時起きしてのクワガタ採り。採ったクワガタは1日家で遊んでペットショップ(と言っても近所の小鳥屋さん)に販売してこづかいを稼いでいた。身長が伸びる事を期待して(中学入学時の身長は 135cm足らず)バスケットボール部に入部しながら川畑式に取り組む。その一方で、テレビ東京「三菱ダイヤモンドサッカー」で放映していた1974年FIFA西ドイツワールドカップでの Johan CruijffGerd Mullerのプレーに感化されサッカーにのめり込む。田舎の県立高校に入学したが訳あって帰宅部。放課後は日本最古の学校と言われている足利学校の図書館に通いつつ、大河ドラマ「草燃える」に影響され日本史の先生を目指す。当時山川の教科書は欄外を含め殆ど暗記していた(趣味の世界)。

1980-84年

湘南の海と横浜の文字に誘われて横浜市立大学商学部に入学。迷わずサッカー部に入部。自分ではCF向きかと思っていたがいきなりDF、それもCFをマークするStopperという極めて地味なポジションを与えられる。また、バスケットボール部時代に培ったキャッチングのよさを見込まれ、半年間キーパー練習も経験。当時神奈川1部リーグに所属していた東海大学との試合でGKとしてもデビューする(前半15分のみ)。「大学で中国語を勉強して中国語で麻雀やろう!」といった高校同級生の冗談を真に受け第二外国語は北京語を選択。2年でいいところをたっぷり3年間履修する。

1984-87年

J-Starに魅せられて富士ゼロックス株式会社に入社。OJTを含め半年間の営業教育を経て北海道営業部旭川出張所を命ぜられる。衝撃の瞬間ではあったが、2年半の旭川生活を経て、北海道の自然や人の温かさに魅せられる。北海道は住んでみなければ本当のよさは分からない。ただ、建設業界の不振がそのまま旭川の景気を脅かしていた。今では入園者数トップの旭山動物園だが当時は廃園のうわさもあった。そんな時代に旭川市内でJ-Starが売れるはずもなく、マイナス30度近くが一週間も続く極寒の地方都市でコートも着ず「営業成績は顧客コール数に比例する」Xerox営業教育理論を信じ、ひたすら犬棒セールスを繰り返す。実際、Xeroxが提唱していた営業教育プログラム(プロフェッショナル・セリング・スキル)は、営業プロセスの全てを客観的に評価するロジックを持っていた完成度の高いものだった。営業職を目指される学生の皆様には絶対お勧めのトレーニング

1987-98年

ミニコンの巨人と言われていたDigital Equipment Corporationの日本法人、日本デジタルイクイップメント株式会社(日本DEC)に入社。大手金融機関向けにシステムを販売。プライベートでは3年振りにサッカー復帰。日本DECサッカー部としてスイスのジュネーヴにサッカー遠征。とは言っても単に欧州DECの”社内サッカー大会”に自費で参加しただけ。レマン湖に欧州DEC社員約3000人が集結。参加者全員収納できる宿泊施設もなく、グランド近くの共同住宅の地下にある核シェルターに泊まるという貴重な経験をする。 VAX/VMSでIBMの株価を上回る事もあった全盛時代からSUN/HPのUNIX陣営の台頭により窮地に追い込まれた時代を過ごす。UNIX陣営がシェアを伸ばそうが ”VMSを凌駕するOSはない” と信じ(性能、機能、革新性の全ての観点から今でもそう思っている)VAX Clusterを提案し続けた。VAXの構成手引書の「TechEdit」は、通勤中の愛読書の一つだった。VAXを組み上げるコンピュータパーツを選択する際、パーツ型番のハイフン以下をどれだけ知っているかがオーダーミスを防ぐポイント。世界最速だった64bit Alphaチップ。その高速チップを搭載し巻き返しを狙った大型AlphaServer である TurboLaserの投入。健闘しつつも救世主には成りえず「速さだけでは勝てない、速さだけで勝負してたら速さに負ける」ハードウェア会社の悲哀を痛感。64bitの市場投入は早過ぎたか・・。いやそうではない。必ずしも市場即効性のある万人受けする技術のみが情報処理業界のイノベーションとは限らないからだ。

1998年12月

ニューメリカルテクノロジーズ株式会社に入社。

1998-2009年

それまで13年以上営業一筋だった人間が、製品開発・財務・経理といった会社の主要業務を「除く」その他の一般業務も担当する事になる。特に社会保険制度を含めた人事関連は知らない事だらけ。社会保険労務士さんや弁護士さん等に助けられながら、不慣れな業務をこなす。会社立ち上げ当初は正社員など採用できないので、アルバイト雑誌に募集広告を出したり、設立当時の会社の近くにあった本郷の大学に通う学生やポスドク等を面接する日々。高い広告費を出して高級感のある求人誌に掲載するより、今では廃刊になってしまった肉体労働の職種を指す俗語「ガテン系」の語源になったと云われているアルバイト求人誌「ガテン」が結果的に一番パフォーマンスがよかったという皮肉。前職の時のお客さんだった銀行の方(鳥居さん)が、上司という奇妙な職場環境。元来はXeroxで学んだKKDI(Kan Keiken Dokyo Iji)スピリッツを持つガチンコ営業マン。事前に幾つかのシナリオを想定して、最適な方法を選択し、その上で実際のアクションを起こすといった銀行員の行動パターンに慣れるまで数年を要した。環境への順応に日々努力しながらの営業活動は新鮮さと緊張感に溢れていた。また、当然の事ながら小隊先企業なので市場の中では弱者である一方、大企業にありがちな社内の抵抗勢力がない中での活動は自分にとって至福の極み。なんの疑いもなく教科書通りのマーケティングを実践できる環境というのは、営業職の方であれば一度は経験したい場かと思う。専門性が高く、製品化が困難なわりには、市場規模がさほど大きくない「金融リスク管理システム」業界。元々参入障壁が高い上に、当該規制対応に伴う新規システム導入の時期を過ぎれば、業界でのプレイヤーは更に減少していくなか、成熟産業における勝ち組企業を目指し、地味ではあるが堅実な顧客サポートに注力する年月を重ねる。

2010-2016年

シンガポール法人設立にあわせ、アジア地域へのプレマーケティングを開始。2010年に中国北京での金融展に出展。大学での3年間の北京語が役に立つかと思いきや見事空振り。外資系コンピュータ会社に11年以上勤務していたが、どちらかと言えば日本語がもっぱら得意なので、日本をベースに活動を続ける日々。

2017年-

日本法人も20期目に突入する今年。お客様にも恵まれ、業績も順調に推移している。一方で、会社として二十歳の成人式前に改めて「スタートアップ」を考えてみる時期かもしれないと奮闘中。昨今の金融規制動向とお客様の情勢を踏まえ、現行サービスに加え、新たなサービス展開を計画中。変化に対応する為の技術力は十分兼ね備えている当社。今年は自分自身の実行力が問われる年になるかもしれないと鼓舞する今日この頃。中々上達しないが、数年前からラウンドも再開。こちらの目標は飛距離アップ。売り上げも飛距離も目標達成を目指し日々精進。

現在に至る。